10/25/2015

In the Beginning was the Image by Peter Greenaway

"Every image carries with it a story, an intention or a truth. Forcing oneself to re-signify, to quote these manifestations of the past always seemed to me an increasing of interest and potential." (Peter Greenaway)





 

James Turrell ジェームズ・タレル

 ジェームス・タレルは光を作品にする。大きい四角い箱が色の光を発している作品、天井を四角く切り取って空を見せた作品、プロジェクターから光線を映し出している作品は、すべて光のインスタレーションである。それは、空間そのものを変化させ、鑑賞者を光のなかにおき、光の経験を与える。

 ヴェネチアのパラッツォ・フォルチュニーの一室に、二年に一度展示されるタレルの作品がある。《レッド・シフト》(1995)と題されたこの作品は、大きな長方形の窪みが壁に設置されていて、そこには色合いが赤から青へと刻々と変わっていく光が映し出されている。それは単に白いスクリーンに色を映し出したものではない。鑑賞者は光を発する窪みの中に手を入れることができる。しかし、奥行きがないように見えるにもかかわらず、手が壁に触れることはない。さらに、光源が見えないので、どこから光が発せられているのか分からない。特に種明かしもない不思議な作品である。その作品では、私たちの手や顔が光に触れる。私たちは光に触れられる。

 私たちは通常、作品を「見る」が、タレルの作品において、その光の中に、つまり作品の中に現れるのは、鑑賞者、すなわち私たち自身である。それは、その作品を見る人を「見られるもの」として、晒し出す。

 直島の地中美術館にあるインスタレーション《オープン・フィールド》(2000年)や、同じく直島の「南寺」のインスタレーション《バックサイド・オブ・ザ・ムーン》(1999年)もまた、私たちに光を感じさせる作品だが、ここで重要なのは「私たち」が「共に」光に触れることだ。

《オープン・フィールド》は薄いブルーの光に向かって鑑賞者たちが一緒に進んでいく。ブルーの光は一見壁に映し出されたものであるように見えるが、進んでいくと、それが壁ではなく部屋であることに気づく。壁が開口部になっていて、その奥に光の空間があり、鑑賞者はその中に入っていくことができる。だが、その空間には何かがあるわけではない。「作品」として見るべき対象はなく、鑑賞者たちがただブルーの光に包まれるだけである。

《バックサイド・オブ・ザ・ムーン》では、鑑賞者は「南寺」の中に入り、真っ暗な空間を進んでいく。それは、壁に沿って手探りで進まなければならないほどの暗闇だ。そして真っ暗な空間に座り、十分程度じっと待つ。暗闇に目が慣れてきたときに、私たちは、はじめて、前方にぼんやりとした光があることに気づく。初めは光がそこにあることにさえ気がつかず、私たちはそこが真っ暗闇だと信じ込んでいる。しかし時間が経つにつれて目が暗闇に慣れてくると、次第に正面の壁からわずかな光が発せられているということが分かるのである。しかも、そこにいる人々はほぼ同じタイミングで一緒に光を認識することになる。そして、光が見えてきたときに、それまでは見えなかった建物内部の様子、あるいは、そこに一緒にいる人々の姿がぼんやりと浮かび上がってくる。私たちは、「ともに」光を見るという経験をする。同時に、私たちは、「ともに」光に晒し出される。

 その光は私たちの目に見えないときにも存在していた。だとしたら、この作品は、私たちが認識しないままに光に晒されていたということを知るプロセスの作品化と言えるだろうか。タイトルの「バックサイド・オブ・ザ・ムーン」とは、私たちが普段見ることのないものを指しているのかもしれない。

 この作品は写真や映像にすることができない性質のものであるため、自分自身がそこにいるということが、作日にとっても鑑賞者にとっても意味を持つ。まさに「いま、ここ」にあるという特性を持つ作品である。

 タレルの光のインスタレーションは、ある意味では「作品」そのものの欠如であると言えるだろう。そこに見るべきものはないからだ。むしろ、鑑賞者の方が光に、作日に、晒されている。そこで見るのは何らかの対象ではなく、強いて言えば実体のない光であり、そして私たち自身である。

 タレルの作品において、私たちは誰かとともに光に晒される経験をする。このことは、ジャン=リュック・ナンシーの言う「共出現」を思い起こさせる。ナンシーは、私たちが、今ここにあること、つまりは存在することを、「共出現[comparaissons]」と表現した。それは、存在することが、いつも「ともに」存在することだからだ。ナンシーは、存在することを、ともに存在すること、共同性に対して露呈されていることであると考えていた。

 タレルの作品は、ナンシーのいう「共出現」の場の出現のように見える。私たち自身が露呈される共出現の場がタレルの作品の光の中で作り出されている。

 また、タレルの作品が作品自体の欠如であるように、共同性もまたそれ自体の欠如として、つまり無限に成り立たないものとして示されていた。

 タレルの作品における作品自体の欠如は、実体としての共同体の欠如を思い起こさせ、タレルの光のインスタレーションは私たちの「共出現」の場所を想起させる。その光の中に作品ではなく私たち自身が露呈されているとき、そこには共同性の露呈があるのかもしれない。

 そして、タレルの作品に「見るべき対象」がないということ、それはこの作品の送り手と受け手の間に「共有されるべきもの」が不在であるということも意味する。そこに共有すべき物語やメッセージがあるのではない。タレルの光のインスタレーションにおいては、単に、その中に存在するということ、それのみが共有される。共有されるべき前提もなければ共有されるべき結果もない。それらがないことによって、鑑賞者の作品への露呈、そして共同性への露呈はは強調される。そして、その露呈のうちに「私たち」の関係性が作り出される。


 タレルの作品には「見るべき対象」がない。ただ光があるだけだ。この何も展示することのないインスタレーションは、それを作品として体験させる「エクスポジション」の試みがある。